目次
全員がどこかでは愚か者であるという前提から考える
少し思考実験をしてみたい。
愚か者の参加が前提の社会についてだ。
まず最初に定義しておきたい。
ここで言う愚か者とは、バカとか、グズとか、能力が低い人だけの話ではない。
ある分野について、
- 知らない人
- 分からない人
- 判断材料を持たない人
- 経験が足りない人
を含めた人々のことである。
この定義に従うなら、全員が愚か者である。
- 医者でも法律は分からない。
- 弁護士でも建築は分からない。
- 建築士でも宇宙工学は分からない。
- ベテランでも未経験分野では初心者になる。
つまり、愚か者を排除した社会は、存在できない。
なぜなら誰も参加できなくなるからである。
その前提で、では、上手く回っていない部分が目立つ実社会を良くするには、どういう打ち手があるだろうか?
本当に危険なのは愚か者ではない?
ここで一つ重要な話がある。
実は社会を壊すのは、愚か者、そのものではない。
むしろヤバいのは、愚かであることを認識できない状態である。
それぞ真の愚か者と言えば、まあ、愚か者がヤバイでほぼイコールみたいな物かもしれないが、要は愚か者全員が危険では無いと言う事が言いたかった。
初心者が、「私は初心者です」と言うなら問題は無い。
- 周囲も説明できる。
- 失敗も想定できる。
- サポートもできる。
しかし、
- 知らないのに知っているつもり
- 分からないのに分かっているつもり
- 経験がないのに経験者のつもり
になると話が変わる。
この瞬間から、見えている大事故の準備期間が始まる可能性がある。
なぜ大惨事になるのか
知らないこと自体は危険ではない。
しかし、知らないことを知らない状態は、場合によってかなり危険である。
例えば登山で考えてみよう。
初心者が、「私は初心者です」と言えば?
- 装備確認が行われる。
- 経験者も同行する。
- 危険箇所も説明される。
少なくとも、その可能性が上がる。
しかし、初心者なのに経験者だと思い込んでいる人は、余裕で全てを飛ばしてしまう。
結果として遭難する可能性が上がるわけだ。
これはどの分野でも同じである。
- 投資。
- 医療。
- 法律。
- 仕事。
- 政治。
- 人間関係。
大きな事故の多くは、無知ではなく、無知への無自覚から始まる。
知っているつもり、分かっているつもり、何も知らない事を認知さえ出来ていない、そんな
愚か者が参加すると、社会は途端に危なくなる。
愚か者社会の第一ルール:「分からない」と言えること
思考実験として、もし社会を設計するなら、最も重要なのは、秀でた技術でも知識でもない。
「分からない」と言える事である。
なぜなら、分からないが宣言されたら、
- 教育が可能となる。
- 確認もできる。
- 補足もできる。
- 監督もできる。
ところが、分からないことを隠す、個人や文化になると、誰かが必ず知ったかぶりを始める。
そして事故が増える。
だから効率的な社会ほど、無知を責めない。
誤魔化しを責める。
そして、全員が何かしらの無知を持っている事を当たり前の物とし、どんな分野や場所にも、特定の専門性や非無知な状態があると言う前提を教育されている。
感覚に頼ると、この前提が無い人が、社会を蝕み始めるだろう。
愚か者社会の第二ルール:間違いを前提に設計する
人間は間違える。
これは避けられない。
だから重要なのは、間違えない仕組みではなく、間違えても致命傷にならない仕組みである。
例えば、
- ダブルチェック
- レビュー
- 確認作業
- 試運転
- テスト環境
こうしたものは全て、人間が漏れなく愚かであるという前提から作られている。
逆に、完璧な人間を前提にした制度は、役に立たない。
脆く、すぐに形骸化する。
一度のミスで壊れ、誰も制度を守れなくなる。
愚か者社会の第三ルール:発言と決定を分離する
愚か者社会では、誰でも発言できることが重要になる。
しかし、誰でも決定できるは、まるで別の問題である。
例えば医療。
患者は自由に意見を言えるべきだ。
だが手術方法の最終判断は専門家が行う。
航空機も同じ。
乗客は要望を出せる。
しかし操縦桿を握るわけではない。
つまり、参加権と決定権は、徹底した別管理をする必要がある。
これによって初心者も、場に参加できる。
同時に社会も壊れにくくなる。
これは同時に、愚かである認知が出来ていない愚か者には、決定権を渡さない制度や仕組みが必要と言う事でもある。
分離をしても、愚か者が決定権まで辿り着けば、死屍累々だ。
愚か者社会のマナー
社会を円滑に回すためには、マナーが役立つ。
自分が愚か者である可能性を残しておく事だ。
- 絶対に正しい。
- 絶対に間違っていない。
そう思った瞬間が危険である。
どんなに正しそうな事であっても、ある立場や視点、仕組みの上では正しいみたいな、正確性、ある種の回りくどさ、注釈付きである事を、全員がマナーとして認知している必要がある。
なぜなら、それが出来ず、思い込むと、もはや修正不能になるからだ。
分からないことを質問する
質問は能力不足の証明ではない。
むしろ質問出来る事は既に優れている。
良い質問が出来れば知らないだけで優秀の証明となる。
これは、むしろ事故防止装置である。
専門家にも専門外があると理解する
肩書きは万能証明書ではない。
医者も別分野では初心者になる。
教授も専門外では素人になる。
間違いを見つけても人格攻撃しない
誰もがどこかで初心者であるし、愚か者の部分があるからである。
人格攻撃は学習を止める。
結果として社会全体の情報流通を悪化させる。
では、これを強制したらどうなるか?
これらルールを、法律のように強制したらどうなるだろう。
ようやく思考実験っぽいパートだ。
まあ、恐らく、別の問題が発生するのだが、それは今より状況が悪いのか?
強制された謙虚さは機能しない?
例えば、「自信を持つな」的な態度を強制したとする。
すると、恐らく、バランスをうまく取れないと極端な方向に転がり始める。
- 誰も決断しなくなる。
- 責任を取らなくて良い様に振る舞う。
- 挑戦しなくなる。
他に、「必ず自分を疑え」を極端に運用すると、今度は、
- 何も言わなく、言えなくなる。
つまり、自信過剰も問題だが、自信不足も問題である。
それを起こさない文言、バランスで法を作るのは、かなり難しいだろう。
人それぞれで影響が違うからだ。
また、単純に法に逆らう人と、適応出来ない人も大勢現れる筈だ。
強制された無知の告白も機能しない?
もし、「分からないことを必ず申告しろ」を徹底するとどうなるか。
恐らく、申告不要な事まで申告し出す筈だ。
- 全員が予防線を張る。
- 全員が責任を避ける。
- 全員が判断を他人へ押し付ける。
すると、社会の効率は下がっていく。
これもやはり、愚か者を無害な愚か者にするには、どの様なバランスで無知の告白をさせるのが最適か分からなければ、強制出来ない。
ふわっとした結論
愚か者の参加を前提とした社会では、愚か者を排除することはできない。
なぜなら全員が愚か者だからである。
これが、現実だ。
- 初心者時代。
- 専門外。
- 苦手分野。
- 未知の状況。
そこでは誰もが愚か者になる。
だから必要なのは、愚か者禁止ではなく、愚か者であることを認識しやすい仕組みである。
- 分からないと言いやすい。
- 質問しやすい。
- 間違いを修正しやすい。
- 失敗しても学び直せる。
そうした構造の方が重要になる。
問題は、そう言う構造を社会内に作るのが、様々な理由から現在は難しい。
そしてもう一つ。
社会が本当に恐れるべきなのは、愚か者ではなく、自分が愚か者である可能性を完全に否定した愚かな人と言う事。
なぜなら人は誰でも愚か者になり得るが、自分だけは例外だと思った瞬間に、学習も修正も停止してしまうからである。
では、そんな人への対処は、どうすれば良いのか?
一生、人類は、そんな人への対応に煩わされなければいけないのだろうか。
きっと、人類が必ず愚かである以上は、そう言う人もいて、対処しなければならない前提で、社会を設計するしかないのだろう。
とは思いつつも、どうにか出来ない物かと思ったりする。
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