コラム

【思考実験】「愚か過ぎ罪」は作れるのか? と言う話

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社会はどこまで”愚かさ”を許容すべきか?

私は愚かである。

前回の記事では、社会は愚か者の参加を前提として設計すべきだ、という話をした。

非常に煮詰まらない面白く無い結論に愚かにも辿り着いたが、懲りずに愚かな事を今回も考える。

今回は、逆を考えてみたい。

もし社会が、「あまりにも社会全体へ悪影響を及ぼす愚かさ」を取り締まれるとしたら、どこまでが許され、どこから先が規制対象になるのだろうか?

もちろん、これは思考実験である。

現実の法律を提案する話ではない。

あくまでも、愚かな人が考えてみた妄言である。(免罪符ぺたー)

最初にぶつかる問題

実は、この制度は最初の一歩でつまずく。

「愚か」とは誰が決めるのか。

これが厄介だ。

多くの真面な人が表現の自由を守るのは、規制派が誰もが納得する規制線を決める事が出来ないからに他ならない。

本来は規制ラインを決められない事だから、誰かが決めた愚かな規制線によって、大きな問題が起きる。

無意味な性器へのモザイク、暴力表現への検閲、書を焼き、アーティストを逮捕し、権力者の匙加減で迷惑を被る人が大勢現れる。

  • ある人から見れば陰謀論。
  • 別の人から見れば正当な疑問。
  • ある人から見れば迷信。
  • 別の人から見れば信仰。
  • ある人から見れば差別。
  • 別の人から見れば価値観。

つまり、思想みたいな物を基準にすると、権力者が気に入らない思想を「愚か」と認定できてしまう。

エロが文明を破滅に追いやった事は一度も無いのに、一部の人々はエロを危険視する。

下品だの上品だの、ゾーニングやら何やらは、大抵の場合、時代や文化毎に違う。

歴史を見ても、この危険性は何度も現れている。

だからもし線を引くなら、思想ではなく、社会へ与える普遍的な損害で考えるしかない。

実害が無い場合は、下手に規制すべきではない。

レベル1

当人が間違っているだけ

例えば、

  • 地球平面説を信じる。
  • 占いを信じる。
  • 都市伝説を信じる。
  • 疑似科学を信じる。
  • カルト宗教を信じる。

ここでは本人の認識や、集団の認識が、現実とズレている可能性はある。

しかし、本人や、その集団内だけで完結している場合も多い。

そうなると、社会や周囲への損害は限定的である。

この段階なら、教育や反論は必要でも、処罰までは不要だろう。

好きに勝手にやってくれと言う物だ。

レベル2

他人へ広める

次に、

  • 積極的に勧誘する。
  • 動画を作る。
  • 本を書く。
  • 講演する。

この段階になると影響範囲は広がる。

しかし、それでも表現の自由という価値が存在する。

間違った情報を語る自由を認めなければ、正しい少数意見も守れなくなる。

また、現在では間違っていると思われていても、実は正しかったなんて事も世の中多い。

ここは非常に難しい境界になるが、迷惑だし、社会的なロスが発生する物の、実害レベルとしては、大抵は許容範囲内に収まるだろう。

だが、ここの線引きとして、無害なら問題無いが、実害や迷惑が観測されたら直ちに制限すると言うグレーゾーンとして、以下のレベルよりも、ある意味で取り扱いに注意が必要な危険地帯として扱う事が「愚か過ぎ罪」を作るなら、必要だろう。

つまり、ここは、愚か過ぎを罪とするなら、愚か者は一歩止まって考えてから愚かでもやる覚悟があるかを問うゾーンと言える。

愚か過ぎ罪があるなら、ここで影響範囲を広げた結果として被害に繋がったら、広げた者が責任を負うのが道理となるだろう。

レベル3

他人へ具体的損害を与える

ここから性質が変わる。

例えば、

  • 治療を妨害する。
  • 詐欺的な高額商品を売る。
  • 危険行為を扇動する。
  • 公共施設を破壊する。
  • 抗議と言って芸術品を破壊する。
  • 救急活動を妨害する。
  • 社会から切り離して洗脳する。

ここでは、思想ではなく、具体的被害が明らかに発生している。

つまり問題なのは、何を信じたかではなく、何をしたかになる。

現代社会の法律も、多くは、この考え方を採用している。

ここは、既に愚か過ぎ罪が無くても、捕まる類の行為である。

レベル4

社会インフラを機能停止させる

さらに上には、社会そのものを止める行為がある。

例えば、

  • 交通を麻痺させる。
  • ライフラインを破壊する。
  • 医療機関を妨害する。
  • 公共サービスを停止させる。
  • 施設を爆破する。

ここまで来ると、思想とは無関係に、社会や国の防衛対象になる。

ある種も何も、立派なテロだ。

「愚かすぎ罪」は必要か否か

ここで考えてみたい。

もし、レベル2で、例えば「反ワクチン」とか「疑似科学健康法」とかで、何か他人に害が出てしまい、直接関わっていなくても愚かさを広めた事から、それを是正する再教育を命じられる制度を作ったらどうなるだろう。

一見すると合理的にも見える気もする。

しかし副作用も予想出来る。

副作用①

誰も異論を言わなくなるリスク

新説や突飛なアイディアは最初、必ず少数派である。

もし少数派を、何かに辿り着く前段階の失敗を見て「愚か」として教育し直すなら、新しい科学も、新しい価値観も、新しい発明も、生まれにくくなる。

広め、大勢によって磨かれる事で価値を持つ事物が、広め、誰かの誤った使い方で害を出すリスクのせいで、広められなくなる。

では、広めるリスクとリターンを、どこでバランスを見て線引きすれば良いかと言うのは、結局の所、誰にも分からない。

どんなに愚かそうに見える事も「広める」と言う事の方を是としておく為には、広がる事を下手に制限しない方が「広める」と言う事を守る事が出来る。

副作用②

権力が暴走するリスク

「愚か」による被害の定義を決めるのは誰か。

  • 政府か。
  • 専門家か。
  • AIか。

どれを選んでも、その基準は、悪意ある介在者がいる限りは悪用できる。

愚かでは無い事を広めた結果、愚かな人が自爆的に実害を被った時、広めた人に過度な賢明さを求め、愚かである方が得をするみたいな逆転現象が線引きの付近で起きうる。

生活保護とか税金の壁とか、救われない弱者と、弱さを利用する悪の発生は、社会を歪な形で不公平にしていく危険がある。

副作用③

人々が思考しなくなるリスク

もし、「間違え過ぎたら再教育」という社会になれば、多くの人は危険な挑戦をしなくなる。

  • 共有し広げる事は、その先の真の愚かな行為をするかもしれないリスクによって慎重にならざるを得ない。
  • 広がらない新しい情報は見えないので、既存の枠組みの中では誰も質問もしないし仮説も立てない。
  • 黙って多数派に従うのが社会的な最適解になるが、多数派が正しいとは限らない。

短期的には、秩序が増えて見えるかもしれない。

しかし長期的には、社会全体の学習効率が著しく落ちる。

もし線を引くなら

では何を基準にすべきなのか。

思想ではなく、行動でもなく、他者へのリスクを見ると、まだマシに規制出来そうな気はする。

例えば、

  • 本人だけで完結しているか。
  • 第三者へ危険を広げるか。
  • 修正可能か。
  • 故意性があるか。
  • 起きうる被害規模、避けられる可能性はどれくらいか。

こういった尺度で評価する。

つまり、「何を信じたか」「何をしたか」ではなく、「その結果、他人へどれだけ危険を及ぼしたか」の度合いで、見るのである。

そう考えると、例えば「反ワクチン」は、ワクチンとの相性が悪い人や、本当に危険なワクチンに対しては人の助けになるが、多くの人にとっては救いになるワクチンに対して思想を広めるのは、害悪の度合いが高くなり、そのままでは愚か過ぎ罪があれば取り締まり対象となるだろう。

それを避けつつ反ワクチン活動を続けるには、本当に危険なワクチンの指示用条件等の証拠を科学的に掴むなりしなければ出来ない。

つまり賢明にならなければ、「その結果、他人へどれだけ危険を及ぼしたか」を評価される場合は、広める行為さえ続けられなくなるのである。

愚かなまま、愚かさの結果起きた事象を他人に押し付けて得をする事が許されない社会になれば、賢明であった方が得をする構造が出来れば、危険な愚か者は自然にも減るだろうし、ヤバい奴は檻の中で再教育と言う罰を受ける事になるだろう。

ただ、愚か過ぎ罪があって尚、愚か過ぎな行為を続行出来る認知を持った危険人物を更生教育する方法が本当にあるのかは、ちょっと分からない。

最後に

愚かさを可能な限り排除、制御した社会は、一見すると理想に見える。

しかし、その社会では、誰かが「愚か」の定義をする。

そして歴史を見る限り、その権限は非常に危険である。

さらに、大抵の場合は、その権限を行使する立場には、真面な人ほど近付かない。

だから、毎度、ろくな事にならない。

だから社会が守るべきなのは、何かしらの大勢に支持される正しさではなく、むしろ、間違っていても具体的な危害を防げる仕組み、と言えるかもしれない。

人は間違える。

だからこそ、「何を考えたか」ではなく、「何をしたか」でもなく、「何が結果として起きたか」を基準に社会を設計する方が、自由と安全の両立に近づける可能性がある。

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