助けたいとさえ思われない弱者の考察

助けたいと思われない弱者の憂鬱

本当の弱者とは、社会的にも個人的に誰にも助けたいとさえ思われない弱者である。

結局の所、社会も個人も誰かを助ける時は、何らかの打算が必ずある。

生活保護も、ホームレス支援も、障碍者支援も、健康保険も、他の様々なセーフティーネットの運用を国家や社会が行う理由は、社会で生活する人々の生存を保証する事と同時に、社会的に健全な関わり方を対象に期待している部分がある。

しかし、本当の弱者は、打算による助けた事によって得られるプラスを、大きく上回るマイナスを持っている。

誰にも助けたいとさえ思われないと言う事は、大多数に対して存在を邪魔に思われていると言う事に他ならない。

これは裏を返せば、所属する社会や関わる個人に対して、存在を邪魔だと思われるラインを超える事は、かなり危険だと言えると言う事だ。

触れたくない、触れたらヤバそうな存在

助けたくない存在には、社会と個人それぞれに特徴がある。

社会の場合は、反社会的である事だ。

社会を健全に回すルールに逆らう存在を、社会は決して許さない。

だから、あらゆる犯罪者は警察に追われるし、どんな真っ当な考えを持っていても革命を企てるのは重罪となる。

社会とは、今現在のルールで動く社会を効率的に回す様に出来ていて、社会に不具合があったとしても、それは変わらない。

つまり、社会は、社会を上手に回すのに邪魔な人は、冷徹に排除する様に出来ている。

個人の場合は、健全なコミュニケーションが重要視される。

なので、コミュニケーションが苦手な人は、人間関係の形成が上手く出来ず、排除されたり、孤立したり、攻撃の対象となる。

コミュニケーションの不健全性とは、相対する相手との認識の齟齬が大きい程に起きやすい。

つまり、個人は、認識のズレが無ければ個人間では、社会的にズレていてもコミュニケーションが成り立つとも言える。

ここで問題となるのは、社会的に不適合でも、個人のコミュニケーションが可能であれば助けを求め応じて貰える可能性があるし、コミュニケーション能力が欠如していても社会的に適合していると判断されれば社会の提供するセーフティーネットの支援を受ける事が出来るが、どちらも欠如している場合である。

社会的にも個人的にも必要とされない状態となれば、社会的にも個人的にも、誰にも触れようと思ってさえ貰えない。

誰にも必要とされない存在の絶望

社会的に不適合で、個人的コミュニケーション能力が欠如しているからと言って、その人がすぐに、どうにかされる訳では無い。

どうにかされる訳では無いし、誰もどうもしない。

それが、絶望を濃縮する。

つまり、社会不適合なりに働いたり養ってもらったり、コミュニケーション障碍者なりに社会に居場所をなし崩し的に確保して、その人の人生は「ただ続く」と言う状態になる。

社会から見ると、明らかに適合出来ていないが、救う程ではないし、率先して救う対象ではない。

助けを求めても、社会は、もっと助けたい人がいると、相手にしてくれない。

個人から見ると、明らかに関わり合いたくないので、腫れ物の様に扱うだけ。

救う程でないし、救いたくもない存在で、社会にも誰にも必要とされずに自己の維持の為に日々を消化していく事になる。

社会にも個人にも「替えが利く役割り」と思われ、「変わって欲しいが、無理だろう」と感じ、断じられ、むしろ「出来れば替えたい」と周囲に思われながら孤独に生きる地獄は、未経験の人では想像が難しいほど空虚な絶望と不安が広がっていそうで、想像するだけで恐ろしい。

イジメの原因の一因?

イジメは、イジメる側が100%悪い事です。

ですが、イジメる側が言う、イジメられる側にも問題があると言う言葉。

あれの一部は、助けたいと思われない弱者への苛立ちから来ていて、被害者の中の一部に対しては、イジメる側が悪いのに変わりは無いのですが、「(イジメたい気持ちも分からなくは、ない)」と第三者が感じてしまう事案がある事も、また事実です。

重ねて言いますが、イジメる側が悪いのですが、イジメられる側にも狙われた要因がある事があると言う話です。

事件を起こす無敵の人

通称「無敵の人」と言われる人々が、時々、社会的に恐ろしい事件を起こす事で世間を騒がせる様になって、既に久しい。

彼ら彼女らの事件を起こす要因は人それぞれ様々だが、元々危険な気質を持っていて、あるいは、そう育てられ、社会からも個人からもマイナスだと思われていた気質が何かを切欠に爆発した様な事件である事がある。

秋葉原連続殺傷事件の犯人は、web掲示板と言う最後の居場所を奪われる事を恐れ、学校のクラスで不満がある時に暴れるのと同じ要領であの事件を起こしたと言われていた。

一見意味がわからない人もいるかもしれないが、犯人は親にそう育てられ、不満がある時には言葉による対話と言うコミュニケーションでは無く行動によって間接的に訴えると言う手段しか教えられずに育ち、web掲示板でのやり取りで溜まった不満を間接的に訴える為に事件を起こした。

これは、気に食わないとキレる事でしか意思表示できないと言う、学校のクラスと言う社会でも、クラスメイトと言う個人でも分かりやすいマイナス性が、街と言う社会で、web掲示板の人々と言う個人に対して爆発した例と言えるだろう。

犯人を見て、事件を起こす前の段階で社会や個人で心から助けたいと感じた人が、一体どれぐらいいただろうか?

事件を起こした犯人を擁護する事は、起こした事件の重大性から出来ないが、犯人が常人には理解し辛い苦しみの果てに事件を起こした事自体は、想像に難くない。

絶望への対処法は?

ある意味で「緩やかに詰んだ存在」と実際に化してしまった場合、人はどうすれば良いのだろうか?

その人が完全な無敵の人状態になったら、マイナス性が何らかの切欠で爆発すれば、とんでも無い事件が起きる可能性がある。

だが、事件が起きるまでは、社会も個人も、その人の事を助けたいとは思えないし、その時点では社会的弱者である場合が殆どなのだ。

つまり、絶望への対処が出来れば、無敵の人問題を解決するヒントになるかもしれないのだ。

まず、どんな事でも良いから、社会か個人に必要とされる存在になる「切欠」が、そう言う人には必要なのは、間違いない。

問題は、それを、どうやって手に入れるかだ。

助けたいと思えない要素をどうにか出来れば、助けても良いとならないだろうか?

助けたいと思えない原因、不安

不安な存在と人は接したいと思わない。

それが既に助けるべき要素を持っていても、不安と言うだけで助ける手を伸ばす事は躊躇される事さえある。

例えば、性犯罪や殺人の前科があると、多くの人は不安になる。

犯罪歴の有無以外が似た二人なら、犯罪歴が無いか、より軽い方を優先したいと思うだろう。

問題は、大きな過ち云々では無く、過去は消せないし、変えられない。

そうなると、気にしないか受け入れてくれる人と出会うか、隠して生きるしかない。

助けたいと思えない原因、不快

人とは残酷だ。

顔、声、笑い方、喋り方、考え方、態度、臭い、等そう言った要素が無害でも不快だと、それだけでマイナスに働く。

自分以外が助ければ良いと誰もが思えば、その人は誰にも助けられない。

厄介なのは、多くの不快の原因は、変える事が難しい。

偏屈な人は、いきなり素直になる事は無い。

顔は整形するか隠すしかないし、声や笑い喋り方だって、考え方や態度だって、臭いだって、変えるのは大変だ。

それらの多くは、生まれつきの質か、そこまでの人生での積み重ねの結果だ。

これも、変えるより、受け入れてくれる人を探すか、隠して生きる方が現実的かも知れない。

マイナス面を武器にする生き方

助けたいと思われない弱者に限った話ではない。

その昔、小人症の人が集まってプロレスしたり、バーでの催しをやったり、サーカスでの見世物等で生計を立てていた時代があった。

一昔前、一部の芸人は、自らの見た目や性格の醜さを武器にして居場所を得るのが当たり前だった。

そのままの社会や個人と言う枠組みではマイナスに働く要素を持って生まれても、それを武器として生きると言う生存戦略は、昔から存在する。

これは、助けたいと思えない存在でも使える手段だ。

マジものの迷惑系YouTuber等にまで行ってしまうと、マイナスをマイナスに使って社会から排除されかねない。

だが、ヤバい人として配信をする事で、仮にネットの玩具にされると言う状態になったとしても受け入れられる事は、マイナス面を上手に武器に変えていると十分言える。

助ける側に回りたいモチベーションと出会う

助けたいと思われない弱者は、多くの場合、社会と個人から実質的に相手にされない状態にある事が大きな問題となっている。

その際、個人との関係性が上手に築けない本質的な問題は、当人が自己中心的な為だ。

自己中な性格は、それだけで多くの人にとって不快で、迷惑になる。

自己中な性格に育ってしまっている人は、多くの場合、今さら性格を変える事が困難である。

だが、自己中な性格だとしても、脱自己中出来る可能性がある。

それが、助ける側に回りたいモチベーションを得る事だ。

心持ちとして助ける側になれると、人は自己中では、決していられなくなる。

助けたいと思うと言う事は、自己犠牲的であり、相手の為に行動したいと思うと言う事で、これが正常なコミュニケーションの取っ掛かりとなる感覚を得るには良いのだ。

例えば、歌手でもアイドルでもタレントでも配信者でも良い。

誰かのファンとなり、その人の為に何かしたい、応援したい、支えたいと考え行動出来れば、その人は、もう助けたいと思えない弱者ではない要素を得る事が出来る。

他に、守る対象である子供の面倒を見る事で、子供に合わせて行動しなければならない感覚を獲得できれば、助ける側に回る事が出来る。

真の助けたいと思えない弱者の闇

本当の問題は、きっと、この先にある。

アイドルに対して自分を愛さないのをおかしいと考えストーカーし命を狙う怪物や、子供の面倒を見る中で性的な悪戯をする怪物と言った、どうやっても救えそうも無い人と言うのが、この世には存在する。

自己犠牲的な精神を発揮させる方法を皆目思いつかない、サイコパスでソシオパスな、救いたいとも誰も思えないし、救えない存在。

真の弱者は、そう言った加害性の嫌らしいギリギリの境界にいて、加害者ではないが、手を差し伸べても「欲しいのは、それじゃない」と突っぱねる自己中心的な態度を示してくる。

社会も個人も、救おうと思えないし、救い方も分からない存在だ。

その人が破滅しても、後悔ばかりの人生を送っても、周囲が自業自得と本心から思ってしまう様な弱者を、救えるのだろうか?

あるいは、社会的にも個人的にも必要とされない要素の煮凝りみたいな人は、実は救う必要も無いのだろうか?

では、社会や個人が救わなくてはいけない弱者の境界は、どこにあるのだろうか?

救うべき弱者と、救えぬ弱者

個人の救うべきか否かの線引きは、個人に依存する。

一方で社会の態度としては、救う手を差し伸べて跳ねのける相手は、その時点で救えないし、反社会的なら即排除対象である。

社会とは、助けるフリこそしてくれるが、どこまでも冷たいシステムだ。

つまり、社会が救わないと決めた時点で、その範囲外の人は救えぬ弱者である。

どんなに救うべきで、救えそうであっても、社会が救えないと判断したのであれば、その点では仕方が無い。

それを鑑みると、現在の日本は、かなり歪だ。

不幸であればあるほど救うべき弱者として救済対象になるが、少しでも恵まれると救済対象から外され、結果的に救うべき弱者よりも幸福である事で救われずに破滅すると言うシステムなのだ。

つまり、社会が救うべきと言う基準が厳しい事で、ストライクゾーンに入った弱者以外は切り捨てている状態と言って良い。

そうなると、救われる弱者のストライクゾーンまで不幸を演出するか、自力でどうにかする以外にない。

これは政府が言う「自己責任論」とも一致する状態であり、国が考える救うべき弱者以外は国には助けて貰えない。

個人が考える助けたいと思えない弱者のゾーンとは別の切り口だが、重なってしまった真に誰にも助けたいと思われない弱者は、絶望するしかない。

果たして「迷惑かけず静かに消えて欲しい」と、社会や周囲の個人達に思われながら、人が幸せに生きる事が出来るのだろうか?

終わりに

「助けたいとさえ思われない弱者」に対する考察でした。

社会にも個人にも許されない「自己中な性格」は、マジで危険と言う事だと思います。

人は場所や対する人によって態度が変わりますが、弱者で自己中だと、誰にも救いようがありません。

自己中が許されるのは、その人が強者で周囲が我慢しているか、周囲が許してくれているからです。

弱者で自己中は、周囲が許してくれないなら、実質的に居場所はありません。

解決するには、自己中をやめるしかない為、自己中な性格な人は態度を改めるのも難儀するでしょう。

でも、人間関係を形成するには、社会性が必要で、社会性で重要なのがコミュニケーションで、コミュニケーションは自分の意見を通すだけでなく、相手の事も考えた言動を取る事です。

自己中な性格の人は、自分の意見を通そうとするコミュニケーション方法以外が苦手な傾向があるので、相手の事を考えた言動を心掛けるだけで、事態は好転に向かうかもしれません。

社会や個人に必要とされ、助けたいと思って貰える人になろうとするのは、当人が生きる上でも大きな力になります。

困った時に、周囲が助けてくれる状況を作っておく事は、生存戦略として見ると、とても理にかなっています。

1回のみ
毎月
毎年

一度だけ寄付する

毎月寄付する

毎年寄付する

金額を選択

¥500
¥1,500
¥10,000
¥500
¥1,500
¥10,000
¥500
¥1,500
¥10,000

またはカスタム金額を入力

¥

寄付していただきありがとうございます。

寄付していただきありがとうございます。

寄付していただきありがとうございます。

寄付月単位で寄付する年単位で寄付する
スポンサーリンク

“助けたいとさえ思われない弱者の考察” への1件の返信

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。